海賊とよばれた男と山口県にあった徳山製油所の関係は?閉鎖した理由は何?
「海賊とよばれた男」に出てきた徳山製油所。
出光興産初の製油所として1957年に作られました。
今も重化学工業が主要な産業の1つである山口県において徳山製油所が果たした役割は計り知れません。
一体どんな製油所だったのでしょうか。
当時最新鋭の設備を搭載
出光興産初の製油所
戦後の石油政策は、精製された石油を輸入するのではなく、
原油を輸入して日本国内で精製する「消費地精製方式」が採られていました。
その中で旧海軍第3燃料廠跡地を国から払い下げ(要は売却)を受けた出光興産は通常2-3年はかかる製油所の建設をわずか10ヶ月で作り、1957年に完成しました。
戦後、敗戦国である日本は軍の規模を縮小したため、使わなくなった軍施設は売却されることが多かったようです。
(使いませんからね。)
アメリカUOP社の技術を導入して建設されたこの製油所は、当時の最新鋭の製油設備を備えていました。
1948-1953年に朝鮮戦争があったことから日本の工業化を推し進めたいアメリカの思惑があったと想像されます。
そして当時は東洋一の規模を誇りました。
敗戦国が10年足らずでそれだけの規模の製油所を建設したことは非常に誇らしいことです。
環境に配慮した製油所
工場を囲うようにして植えられたグリーンベルトが大きな特長で、公害問題が注目されていた時代に工場の緑化や美化に注力。
1960年代前後、日本は高度成長期の中で成長を優先した工業化によって公害が多発、その中で環境に配慮した徳山製油所は注目に値します。
閉鎖
徳山製油所ができた時代は高度成長期の真っ只中
1957年当時、徳山製油所が完成した際には日本の人口は9,000万人程度、現在の3/4に過ぎませんでした。
そして65歳以上の割合も5%と現在の高齢化社会を考えると成長を期待させる社会でもありました。
製油所閉鎖
しかし、大きな流れには逆らえません。
人口減少社会の到来、エネルギーの多様化により、徳山製油所の地位は低下していきます。
また徳山製油所は日量12万バレルで出光興産全体の1/5の生産量に過ぎませんでした。
そして徳山製油所を閉鎖することで、他の製油所の稼働率の上昇することもあり、
(稼働率が上昇すると利益率が押しあがる)2014年3月、ついに閉鎖することになりました。
まとめ
・徳山製油所は出光興産初の製油所だった。
・当時最新鋭の設備を持ち、環境にも配慮していた。
・時代の流れでエネルギー事情、人口減社会で重要性は低下していった
・2014年3月に閉鎖した